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サバト (魔女) : ミニ英和和英辞書
サバト (魔女)[さばと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

サバト : [さばと]
 (pt:) (n) Saturday (pt: sabado), (pt:) (n) Saturday (pt: sabado)
: [ま]
 【名詞】 1. demon 2. devil 3. evil spirit evil influence 
魔女 : [まじょ]
 【名詞】 1. witch 
: [じょ]
 【名詞】 1. woman 2. girl 3. daughter

サバト (魔女) : ウィキペディア日本語版
サバト (魔女)[さばと]

サバト () とはヨーロッパで信じられていた魔女あるいは悪魔崇拝の集会。魔宴魔女の夜宴夜会ともいう。ヨーロッパでは土曜の夜に魔女が集会を行うと信じられ、中世から17世紀ごろまでサバトに参加した罪を告発されて裁判にかけられた無数の人々の記録が残っている。しかしそのような集会が本当に行われたという信頼に足る記録はなく、サバトについて書き記されたことの多くは故意に作り上げられた虚報か、人々の想像の産物とも考えられている。
語源については不明であり諸説あるが、安息日である第七日を表すヘブライ語シェバト()に由来するという説が妥当とされている〔ロッセル・ホープ・ロビンズ『悪魔学大全』松田和也訳、青土社、1997年〕。サバトという言葉自体は後に普及した古フランス語の呼称であり、当初はシナゴーグという呼称が一般的であった。また、当時の民衆の間では striaz、barlótt、akelarre など、地方ごとにこうした集会を表すさまざまな呼称があった〔。
== 歴史 ==
中世ヨーロッパの各地で、女たちが夜間にディアーナやゲルマンの女神ホルダと飛行し集うといった異教的民間信仰があった〔田中雅志『魔女の誕生と衰退 原典資料で読む西洋悪魔学の歴史』三交社、2008年〕。906年頃にプリュムのレギノンが編纂したカノン(教会法)は、夜に動物に乗ってディアーナとともに旅をしたり、ディアーナに仕えるために召集される「邪悪な女たち」がいるとし、これを根絶すべき迷信として非難している。このテクストは11世紀にヴォルムスのブルヒァルト(:en:Burchard of Worms)が編纂した「教令集」に若干改変された形で再録され、後に『司教法令集』と呼ばれて流布した。『司教法令集』は「ディアーナの騎行」は悪魔に吹き込まれた幻覚にすぎず、現実のものではないと断じた。そのためか、こうした女たちへの罰は比較的軽いものであった〔。その頃はまだ悪魔に仕える魔女という存在の概念は確立していなかったが、ここにみられる女たちの夜の旅や集会は、魔女がホウキや動物にまたがって夜に集うという後世に作られた類型的サバト像に通じるものである。
ロッセル・ホープ・ロビンズなどの学者は、悪魔的なサバトの概念は主として中世末期の14-15世紀に異端審問官や学者らによって作り上げられたものであり、異端審問においてサバトが初めて登場したのは1335年のトゥールーズでの裁判であったとした〔。しかし、ノーマン・コーンは1330年代のトゥールーズの魔女裁判に関する典拠となったラモト=ランゴン男爵の『フランスにおける異端審問所の歴史』(1829年)は一次史料に依拠しない歴史捏造的な書物であると指摘し、魔女のサバトの概念が14世紀において南フランスでのカタリ派迫害の延長線上に生まれたとする説を論駁している〔ノーマン・コーン『魔女狩りの社会史 ヨーロッパの内なる悪霊』山本通訳、岩波書店、1983年〕。初期の悪魔学者ヨハンネス・ニーダー(:en:Johannes Nider, ca 1380-1438)はサバトのことを知らず、魔女の空中飛行については懐疑的であった〔が、スイスで子どもを殺す儀式があったことを『蟻塚』(''Formicarius'', 1435-1438)の中で記している〔ダレン・オルドリッジ『針の上で天使は何人踊れるか 幻想と理性の中世・ルネサンス』池上俊一監修、寺尾まち子訳、柏書房、2007年〕。また、女性を非難する側と擁護する側の議論を描いたマルタン・ル・フラン(:en:Martin Le Franc)の長編詩『女性の擁護者』(''Le Champion des dames'', ca 1440)では当時のサバト観が論じられている〔。1452年の作者不詳の小冊子『ガザリ派の誤謬』(''Errores Gazariorum'')にもサバトのことが出てくる(そこではサバトのことはシナゴーグと呼ばれている)〔。
15世紀には、悪魔崇拝的な魔女たちが徒党を組んでいると考えられるようになり、乱交に耽ったり幼児を食らったりする魔女の秘密集会のことが悪魔学の論書の中で取り沙汰された。こうした魔女の所業の告発は、キリスト教の異端ユダヤ人に対してなされた告発とよく似たものであった。14世紀ごろにはワルドー派やカタリ派の異端者は悪魔崇拝の嫌疑をかけられ、サタンと性交したり秘密の集会(こうした集会はユダヤ人の集会であるシナゴーグの名で呼ばれた)で乱行に及ぶと考えられていた。魔女の集団が実在するという考えが生まれた背景には、こうした異端者やユダヤ人への空想的な偏見があるとする見方がある〔上山安敏『魔女とキリスト教』講談社学術文庫、1998年〕〔ライナー・デッカー『教皇と魔女 宗教裁判の機密文書より』佐藤正樹・佐々木れい訳、法政大学出版局、2007年〕〔。上述のような悪魔に仕える魔女の概念が確立した15世紀には、『司教法令集』で女たちの夜の飛行や集会が幻覚とされたのと対照的に、サバトは現実の出来事とされ、火刑に処すべき罪とみなされるようになった〔。
近世の魔女裁判に大きな影響を与えたと言われている『魔女に与える鉄槌』(1486年)では魔女の集会についてあまり言及されていないが、16-17世紀にはジャン・ボダン(:en:Jean Bodin, 1529/30-1596)の『魔女の悪魔憑依』(''De la Démonomanie des Sorciers'', 1580)やド・ランクル(:en:De Lancre, 1553-1631)の『堕天使と悪霊の無節操一覧』(''Tableau de L'inconstance des Mauvais Anges et Démons'', 1612年)など多くの悪魔学論書が出版され、サバトに対する妄想は拡充されていった〔。多くの人々がサバトへの参加を告発されその命を失ったのもこの時代である。ペーター・ビンスフェルト(:en:Peter Binsfeld)はその著 『蠱業(まじわざ)への注解』(', 1622)で魔女を告発する際の重要な証拠として、その人物がサバトに参加したことを挙げている。, 1622)で魔女を告発する際の重要な証拠として、その人物がサバトに参加したことを挙げている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「サバト (魔女)」の詳細全文を読む




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